かりんとうblog

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パーマ カワァイ 今出川の風景

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一回生の頃から気になっていたパーマ カワァイ。

いや違うな。 いつの間にか視界にも入らなくなってたパーマ カワァイ。

この路地の先にあるのだろうか?パーマ カワァイ。

未知なるパーマ カワァイ。
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by gongduck | 2006-02-23 16:25 | 京都のこと

いただきます

毎日新聞で「いただきます」を巡って面白い話があった。

学生食堂でにしろ、定食屋でにしろ、「いただきます。」と声に出さないまでも。
未だに食べる前に手を合わせる癖がある。
ごちそうさまはしたり、しなかったり。。。

韓国語にも「いただきます」「ごちそうさま」に当たる言葉がある。
잘 먹겠습니다【チャル モッケッスムニダ】  
잘 먹었습니다【チャル モゴッスムニダ】 
がそれに当たる。

「チャル モッケッスムニダ(いただきます)」を直訳すれば意思未来形としての「よく食べます」の意で、
一方、「チャル モゴッスムニダ(ごちそうさま)」を直訳すれば過去形の「よく食べました」の意になる。
しかしどうも、「いただきます」と「チャル モッケッスムニダ」を単純にイコールとはできない。


韓国で下宿生活してたときのこと。
朝晩2食付きの下宿で、入れ替わり立ち代り学生たちが食べて行く。
そんな中で、僕が手を合せて「チャルモッケスムニダ」とやってると、「お前はクリスチャンなのか?日本人には少ないんじゃないのか。」みたいなことを聞かれた。
そう言えば、韓国人は「いただきます」を言ったり、言わなかったりする。もちろん言っても手を合わせたりはしない。手を合わせるというか、クリスチャンの子で手を握って目を瞑ってお祈りしてるのはいる。結構多い。
「キリスト教徒じゃないけど、日本じゃこうするんだ。家でも、学校でもそう教わる。」みたいなことを答えておいた。
結構愛想よくて礼儀正しい子でも「いただきます」を言ったり言わなかったりするから、「誰にいただきます言ってるんだ?」てことを詰めて聞いてみると、案の定「多分、作ってるアジュンマ。作ってくれたアジュンマがその場にいなければいただきますは言わないような気がする。」とのこと。

答えがどうもはっきりしないのは、考えれば僕だって「いただきます」言っても誰かしらに言ってる意識がないのと同じ。はっきり言って習慣で言ってるだけだけど、強いて考えればこの料理を作ってくれた人(その場にいなくても)、そのお米・野菜・家畜を育ててくれた農家さん、流通に関わる人、まあ天土にも感謝するかな。(正直、お命頂きますの念は探したけど出てこなかった。)これって実は信仰なのかもしれない。
韓国人の「チャルモッケスムニダ」の対象は(その場にいる)作ってくれた人って点で、やっぱり僕の「いただきます」とは違う。でも「いただきます」の対象は、クリスチャンのお祈りの対象とも違う気がする。(テレビドラマ『大草原の小さな家』で観たインガルス家の食卓のイメージ。あれって料理した人、育てた人、自然その他の雑多なものじゃなくて唯一神そのものへの感謝だと思う。)

別に、だから韓国人は・・・云々。日本人の感性は素晴らしい。なんて排他的な話にするつもりは全くない。実際、毎日新聞の記事のように給食で「いただきます」を言う必要はないと考える日本人もいるわけで、何か寂しい気もしないこともないけど、その場にいないものへの感謝の念はやっぱり個人の信仰に属するものだと思う。
僕がここで興味深く思うのは、僕個人の(もしくは言うのが当然だと考える人の)「いただきます」の感謝の念が、どこでどのように生まれれた(もしくは教わった?植えつけられた?)のかということ。実は本人には教わった記憶がいまいちない。両親が言ってたような気もするし、小学校一年生のときに、最初の給食の時間に先生が言ってたような(現に今言ってるような)イメージがないこともない。
やっぱ教育なんだろうな。教育だと気付かせないくらいの教育。その結果「いただきます」言うのが当たり前、当然だと思ってた自分がいる。感謝の念自体はいい。「いただきます」の感性は好き。でもそれが作られたものであることを自覚しない分、言わない人のことを簡単に否定してしまう自分がいる。そこが気になった。
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by gongduck | 2006-02-16 17:23 | ことば

神田神保町 時代屋

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時代小説専門の書店

何気に江戸風俗関係の書籍が目を引く
でも定価で買う気にはなれないんだよな
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by gongduck | 2006-02-13 19:36 | 日々のこと