かりんとうblog

エンデとパパラギと

shou20031 さんのモモに自分の生き方を考える。
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今でも覚えている。
エンデが亡くなったのは僕が高校生のときだった。
身内を亡くすのとはまた違う喪失感だった。
もうこれ以上エンデが新たな世界を生み出すことはない。
もうこれ以上エンデの生み出す新たな世界に身を浸すことはできない。

同じ感覚を翌年、司馬遼太郎が亡くなったとき
大学に入って池波正太郎と藤沢周平に出会ったとき、
そして2人が既に鬼籍の人であるのを知ったとき
僕は味わった。


b0054886_1492756.jpgさてエンデの『モモ』のこと
初めて読んだのは中学生のころか
続けて『はてしない物語』を読み、直後に第二章が映画化され
観に行ってみたもののがっかりした記憶がある。

b0054886_1494110.jpg時間どろぼうが僕の中で形を持ち始めたのは
高校に上がって『パパラギ』を読んでからだった。
南海の酋長ツイアビにとって
西洋人の風習の中で一番理解できなかったのが
お金を払い暗い箱に入って動く写真を眺めて時間を過ごすことだった。

大学に上がり、近所のレンタルビデオ屋が100円セールを始めた。
もとより嫌いではなかったのもあるが
1本3、400円で借りる気になればという気持ちで5、6本借りて帰る日が続いた。
もちろん生活を崩した。
終電を逃し、始発までカラオケで時間を過ごすのも覚えたし、
不眠症もどきでいろんなプレッシャーから逃避しようと漫画喫茶で眠くなるのを待ったりもした。
ビデオが回っている間、カラオケのフリータイムが終わるまでの間、
漫画をめくっている間、それに没頭して他のことを考えずに済んでた。

いつしか僕は時間を買っていた。
ビデオ屋には1本当たり60分から120分程度の時間が山のように並んでいる。
カラオケでは皆で十数曲分の時間を買ってる。
漫画喫茶では1時間買うより3時間買った方が得かもしれない。
古本屋なら一冊100円で2時間くらいは持つかな。

何かをするというのは、時間を消費することだ。
いつから時間を消費するのにお金を使うようになったのだろう。
いつから人は時間を売るようになったのだろう。


池波正太郎は言う。
人は自分が死に行く存在であるのを知るべきだと。

モモはツイアビは僕をどう見るだろう。
僕の時間は限られてる。
残された時間を僕はどう使うのだろう。
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by gongduck | 2005-05-24 14:04 | 文化的生活